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保育園の設立

ひらお保育園設立の経過と思い出 

1989年(昭和64年)大規模修繕工事の終了を一区切りとして
【ひらお保育園17年の歩み】が発行されました。
そこに掲載された当時の理事長 西條億重氏の文章から、設立
当時の様子を伺い知ることが出来ます。

             

東京都からの照会
 昭和45年の初頭の頃だったと思いますが、東京都より私に対して「三多摩の稲城町で『民間委託の保育園を設置したいが、適当な民間団体を推薦してほしい』と言う突然の申し入れがあったが、厚生館で引き受けてもらえないか」という突然の照会がありました。
 当時、東京都は美濃部知事就任直後で、知事は保育行政の拡充を大事な目玉として、施設の増設とその内容改善に力を傾注していた時でした。ウサギの飼育
 しかし、「ポストの数ほど保育所を」のスローガンのもと、その数は急ピッチで増えていましたが、それでもまだ都民の旺盛な保育要望に応えきれないため、応急な措置として無認可保育所に補助金を交付して、それが憲法違反の疑いがあるとして、国会で大きな物議をかもしましたが、知事はその合法性を強調してのりきったという経緯まであった時です。
 当時、私は[東京の明るい社会福祉を進める会]の会長をつとめ、都知事選に際しては、社会福祉業界の有志を糾合して美濃部知事の当選に一役かって出たことから、稲城町への推薦には私にまず白羽の矢をたててきたのかとも推察されます。
 設置にあたっての条件をきいてみますと、「都の住宅供給公社が稲城町の平尾の原野に大きな都営住宅を建設するが、その中に保育園を設置することとなり、園舎の敷地約3千平方メートルは無料で貸与える。またその建築費は国の補助金を待たずに、都が単独で国基準を準用して補助する。」という有利な条件が備わっていました。

三多摩のチベットと言われていた平尾の緑地に保育園を
 当法人が経営している厚生館保育園、母子寮は墨田区の工場街の一角にあって悪環境の中で苦闘していましたので、三多摩のチベットと言われている平尾の緑野に建つ保育園を想像して、一種あこがれに似た淡い吸引を感じさせられました。おとまり
 しかし、実際引き受けるとなると、建築費の半分以上も自己負担しなくてはならず、その上事務手続きにも忙殺されるので、そう安易には応諾できません。まず知り合いの建築関係者から建築価格を概算見積もりしてもらったり、借入金の可能額を担当者にあたったり、私の私財投入額を勘案したり、平尾団地の住宅建築現場を視察したりしているうちに、いつのまにかずるずると積極方向に滑りこんで、ついに応諾を決意するに至りました。

目まぐるしい奔走の日々
 さて、それから後の1年間は大変でした。園舎を新設するからには特色のあるものにしたいと念じ、いろいろな保育園を見学して廻ったり、関係機関である東京都庁、稲城町役場、平尾の建築現場、地主にあたる東京都住宅供給公社、当時唯一の社会福祉団体への公金融資元だった東京都社会福祉協議会、工事請負を落札した片山組などにお百度を踏んで目まぐるしい奔走の日々が続きました。
 思い返せば都の民政局長は縫田華子氏、児童部長は町田英一氏、住宅供給公社の理事長は近藤龍一氏、担当は塩沢武雄氏、東社協事務局長は田中法善氏、総務部長は長山政夫氏、当時の当法人理事監事で、すでに鬼籍に入られた大河内信敏・泉盈之進 ・伊東勇・川口典山・中山留吉諸氏、それに誰よりも交渉の要となった稲城町の町長・高橋昌太郎氏、福祉課長・小宮重蔵氏、企画室長・西部訓弘氏、片山組社長・片山隆之氏、総務課長・吉村節夫紙、設計監督・内宣雄氏、現場監督・鈴木氏等々、大変お世話になった方々のお顔が懐かしく走馬灯のように脳裏によみがえってまいります。

当時の稲城・平尾
 当時、稲城の町役場は古い木造の二階建で、歩くと床板が波をうつような老朽建物でした。今の立派な市庁舎に比べて、まことに今昔の感に堪えません。焼き芋大会
稲城の町役場から平尾の建築現場までは全く交通の便がないので、タクシーを雇うしかないのですが、そこまでの道路は狭い泥道で運転手も行くのを渋るような悪路でした。また、現場は赤土を深く掘り返してネチャネチャしているので、普段ばきの革靴では間に合わず、ゴム長靴にはきかえて出かけたものです。
 とにかく団地住宅の建設に平行して保育園の建築も進み、昭和45年には新公社住宅への入居が始まりましたが、ひらお保育園も昭和46年3月末までに園舎が竣工して4月1日からの事業開始に取り付けた次第です。
 
市制のへの移行
 同時に稲城町も平尾団地の人工急増をてこに昭和46年11月から市制が敷かれることとなり、高橋町長は4月一杯で臨時市長代行を退任し、5月より森直兄氏が新しく選任され、市制移行に伴って大幅な人事移動が行なわれました。46年4、5月頃はそんな関係で市役所の窓口業務もごたごたしていた矢先でしたので、ひらお保育園への入園申し込みの受付は私と母子寮長と現園長中川の3人が、団地内の出張事務所で受付を代行したことも思い出に残るひとこまです。押し入れの冒険
 

保母の求人難
 その頃は、公私立保育園の増設が急ピッチで進められていたため、保母の求人難は深刻さを極めていました。新設のひらお保育園は一挙に20名の職員を募集しなければならないので、その対応に四苦八苦しました。
最後には地方より上京して来た無資格の保母さんにも就職をお願いすることも止むを得ない状況で、園舎に隣接して建てた職員宿舎4室はいつも満員で、時には1室に2人同居してもらうようなこともおこりました。
 当時、東京都は保母養成学校を増設しつつありましたが、保母の需要に追いつかないので地方からの人手に頼らなければならない関係で、急拠、保母宿舎の建築にも園舎同様の補助金の交付が行なわれていたわけです。

美濃部知事への狂歌
 とにかく、国の示す保育単価に積算されている保母の給与は低額で、そのため私立保育園の保母は公立保育園に比較して、数段安い給料しか保証できませんでした。
 公私の職員給与の格差をなくす運動は、民間施設に共通した最大の念願でした。私は、次のような狂歌を短冊に書いて美濃部知事のところへ持って行ったことを思い出します。パン食い競走

    七重八重、膝は折れども 
      山吹の 黄金の色の浅くして 
         保母一人だに こぬぞ悲しき
 この歌の由来は、昔、江戸城主太田道灌が狩りに出て、にわか雨にあったので野なかの一軒家に立ち寄って蓑の借用を申し入れたところ、その家の娘が山吹の枝を切って差し出した。道灌はその意味がわからず戸惑ったが、帰宅後
    七重八重、花は咲けども山吹の
       みのひとつだに なきぞ悲しき
という古歌に託して蓑のないことの返事に代えたのだとわかり、以後は武事ばかりでなく文武両道に励み、名将歌人となったと伝えられています。
 現代版江戸城主・美濃部知事にこの歌をもじって民間施設職員の給与が低いので、いくら頭を下げても保母の来手がないことを風刺しながら訴えたものです。

公私格差是正と補助金・助成金
 こうした運動が実って、知事は英断を持って民間施設給与改善のため、公私格差是正の施策を打ち出しました。その措置は全国関係者の羨望の的となり現在も続行しているので、その内容は周知のとおりです。勿論ひらお保育園でも、この制度によって活力を得たことはいうまでもありません。

 ひらお保育園発足当初の園児の定員は195人でしたが、ふたを開けてみると乳児クラスに希望が集中し、4,5歳児とも1組ずつしかうまりませんでした。カルメン
 そのため数ヶ月にわたって赤字経営となり、都に窮状を訴えたところ、早々にこれを取り上げてくれ、昭和46年の中途から158人に定員減が認可されました。定員195人としての建設補助金が出ているので、開園した年度内に定員減を認可することは全く異例な措置といえます。
 もしも建築に国の補助金をもらっていたら、補助金の一部返還命令が出たはずですが、国とは関係なく東京都だけの補助金によって建てたため、このような取り計らいの余地があったわけです。
 ひらお保育園の開設に当たっての園舎建築の収支決算は、現在の建築費に比較すれば三分の一以下の金額であり、15年間の貨幣価値の変動が伺えます。なお、暖房工事は本工事に遅れて昭和46年度に入って東京馬主協会の助成金より設置することができました。同協会の助成金の審査に当たる評議委員会の議長は、私の旧き知友上森子鉄氏であったことは、なにか因縁めいたものを感じさせる出会いでした。
 

開園から15年みんなの家
 その後15年間は、園児158人の定員はほぼ満杯で年を重ねてきましたが、最近は乳幼児出生数が激減してきた影響で、定員がうまらない年度が目立ってきました。
 一方、園舎の一部も老朽化して大改修の必要に迫られたため、昭和60年度に国や都の補助金の交付を受けて、一ケ年がかりで改修工事を竣工させました。そして前述のような実情から、昭和61年度よりは定員を130人に改訂し、また園長を私から中川厚子氏に変更しましたことはご承知の通りです。
              
             ー1989年発行ひらお保育園17年の歩みより ー